大磯町にある「大磯八景」という8つの名所をめぐってきました。大磯八景というのは、1907年(明治40年)頃に大磯町第5代町長の宮代謙吉が、その当時大磯を代表する名所を8ヵ所選び、絵葉書を出版したのが始まりといわれています。その後1937年(昭和12年)には、大磯小学校2代校長の朝倉敬之が、自作の歌を刻んだ記念碑を大磯八景に選ばれた場所に建立しました。
大磯八景に選定された場所は、現在も当時と変わらず大磯を代表する景勝地である場所もありますが、対照的に当時とはだいぶ風景が変わってしまった場所もあります。ただ、歌を刻んだ記念の石碑については、現在も7基が現存している事を知りました。今回はその石碑の場所を頼りに「大磯八景」を巡ってきました。
高麗寺の晩鐘(こうらいじのばんしょう)
高麗寺というのは、神仏習合であった江戸時代まではこの地に存在していましたが、明治時代に入り神仏分離や廃仏毀釈が進むなか廃寺となり、現在は高麗神社だけが存在しています。ちなみに、晩鐘というのは寺院などが夕方に打ち鳴らす鐘のことです。
大磯八景の石碑は、写真の〇で囲った場所に設置されていました。御社へ向かう参道の中ほど左手に設置されていました。
石碑の表には、次のように歌と表題などが刻まれていました。
“大磯八景の一 高麗寺乃晩鐘
さらぬたに 物思はるる夕間暮 きくぞ悲しき 山寺の鐘 敬之”
石碑の裏には、“昭和十二年一月建立” と刻まれていました。
- 絵葉書の表題:高来寺山晩鐘
- 「高麗寺(現 高麗神社)」の所在地:神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9−47
- 「大磯八景 高麗寺の晩鐘」の石碑の場所:35°19'18.7"N 139°19'29.1"E
花水橋の夕照(はなみずばしのせきしょう)
花水橋というのは、花水川に架かる東海道の橋で、夕照というのは夕映えの事です。この日は残念ながら曇っていて夕日が望めませんでしたが、確かに花水橋から見える夕映えは美しいロケーションだと思います。
大磯八景の石碑は、写真の〇で囲った場所に設置されていました。花水橋の左岸下流側に設置されていました。
石碑の表には、次のように歌と表題などが刻まれていました。
“大磯八景の一 花水川乃夕照
高麗山に 入るかと見えし夕日影 花水橋にはえて残れり 敬之”
石碑の裏には、“昭和十二年一月建立” と刻まれていました。
- 絵葉書の表題:花水橋夕照
- 「花水橋」の所在地:神奈川県大磯町高麗3丁目4 花水橋
- 「大磯八景 花水橋の夕照」の石碑の場所:35°19'24.3"N 139°19'46.6"E
唐土ヶ原の落雁(もろこしがはらのらくがん)
唐土ヶ原というのはこの辺りの古い地名で、唐土という言葉は中国の事を指す古い日本の言葉です。そして、落雁というのは池沼などに舞い降りる雁のことです。現在では、この辺りは住宅街になっていますが、当時はまだ花水川の河川敷のような場所で雁など水鳥が飛来する地だったのでしょう。
大磯八景の石碑は、下花水橋西の交差点から西に120mほど進んだ住宅街の一角に設置されていました。
石碑の表には、次のように歌と表題などが刻まれていました。
“大磯八景の一 唐ヶ原落雁
霜結ぶ 枯葉の葦におちて行く 雁の音寒し 唐が原 敬之”
石碑の裏が植栽により文字の一部 “昭和十二年” までしか確認できませんでした。おそらく他所と同じく建立した日が刻まれていると思われます。
- 絵葉書の表題: 唐土ヶ原乃落雁
- 「唐土ヶ原(現 唐ケ原)」の所在地:神奈川県平塚市唐ケ原
- 「大磯八景 唐土ヶ原の落雁」の石碑の場所:35°18'58.7"N 139°19'38.3"E
化粧坂の夜雨(けわいざかのよさめ)
化粧坂というのは、東海道五十三次の8番目の宿場町である大磯宿にある松並木の旧街道にあります。現在も松並木の風景は保たれていて、地域の方々の生活路として利用されています。初代歌川広重の浮世絵に描かれている大磯は、この化粧坂あたりだといわれています。
大磯八景の石碑は、写真の〇で囲った場所に設置されていました。旧街道がJR東海道本線の下をくぐる地点から、北東50mほどのところに設置されていました。
石碑の表には、次のように歌と表題などが刻まれていました。
“大磯八景の一 化粧坂乃夜雨
雨の夜は 静けかりけり化粧坂 松の雫の 音ばかりして 敬之”
石碑が設置された場所が土塁状になっていたため石碑の裏は確認できませんでしたが、おそらく他所と同じく建立した日が刻まれていると思われます。
- 絵葉書の表題:化粧坂夜雨
- 「化粧坂」の所在地:神奈川県中郡大磯町大磯 化粧坂
- 「大磯八景 化粧坂の夜雨」の石碑の場所:35°19'00.4"N 139°19'15.9"E
鴫立沢の秋月(しぎたつさわのしゅうげつ)
鴫立沢というのは、大磯町役場の東側を流れる渓谷状の小さな沢です。西行法師が旅の途中に、この地で句を詠んだとされています。そばに鴫立庵という建物があります。
大磯八景の石碑は、写真の矢印の先に設置されていました。国道一号線から鴫立庵へと階段を下ったところ、左側の植栽内に設置されていました。
石碑の表には、次のように歌と表題などが刻まれていました。
“大磯八景の一 鴫立澤乃秋月
さやけくも 古にし石文照すなり 鴫立澤の 秋の夜の月 敬之”
石碑の裏面については、石碑が設置された場所が植栽内のため確認できませんでしたが、おそらく他所と同じく建立した日が刻まれていると思われます。
- 絵葉書の表題:鴫立沢秋月
- 「鴫立沢」の所在地:神奈川県中郡大磯町大磯1289 鴫立庵付近
- 「大磯八景 鴫立沢の秋月」の石碑の場所:35°18'27.0"N 139°18'43.0"E
照ヶ崎の帰帆(てるがさきのきはん)
照ヶ崎という場所は、現在でも大磯を代表する景勝地となっています。小石交じりの玉砂利の美しい海岸と、アオバトが訪れる岩礁が有名な海岸です。ちなみに、帰帆というのは港に帰ってくる船のことをいいます。
大磯八景の石碑は、写真の〇で囲った場所に設置されていました。
ここだけ石碑のデザインが他所と異なっていました。石碑の表には、次のように歌と表題などが刻まれていました。
“大磯八景の一 照ヶ崎帰帆
いさり火の 照ヶ崎までつづく見ゆ いかつり船や 今帰るらん 敬之”
石碑の裏には、他所の石碑と違い “平成二十年九月建立” と建立した日の他に、 “平成○○年七月 伊東静郎 書” とも読める文字が刻まれていました。○の部分が特殊な文字で読む事ができませんでした。
- 絵葉書の表題:照ヶ崎帰帆
- 「照ヶ崎」の所在地:神奈川県中郡大磯町大磯1398 ポートハウスてるがさき付近
- 「大磯八景 照ヶ崎の帰帆」の石碑の場所:35°18'22.2"N 139°18'55.5"E
富士山の暮雪(ふじさんのぼせつ)
現在この辺りには建物が立ち並び、残念ながら富士山を望む事ができませんでした。この辺りは少し高台となっている事や、富士見橋という橋の跡(橋の欄干だけが残る)がある事からも、当時はこの場所から富士山が望めたのだと思います。そして暮雪というのは、夕暮れに見る雪景色のことです。当時ここから見えていた、夕暮れ時の雪化粧した富士山の姿は絶景だったのでしょう。
大磯八景の石碑は、写真の〇で囲った場所に設置されていました。
石碑の表には、次のように歌と表題などが刻まれていました。
“大磯八景の一 富士乃暮雪
くれそめて 紫匂ふ雪の色を みはらかすなり 富士見橋の辺 敬之”
石碑の裏には、“昭和十二年一月建立” と刻まれていました。
- 絵葉書の表題:富士山暮雪
- 「富士見橋」の所在地:神奈川県中郡大磯町東小磯90 富士見橋跡
- 「大磯八景 富士山の暮雪」の石碑の場所:35°18'33.7"N 139°18'34.6"E
小淘綾の晴嵐(こよろぎのせいらん)
「小淘綾(こよろぎ)」という場所は、現在の「こゆるぎ浜」にあたるといわれています。そして晴嵐という言葉は、晴れた日に山にかかる霞のことを指しています。晴れていれば箱根連山や富士山が良く見える景勝地です。
こゆるぎ浜へ向かうには、大磯町役場の前から鴫立沢沿いに海岸線へ出る事ができます。
その他の場所から海岸へ出るには、海岸線と並走して西湘バイパスが通っているため、バイパスの下につくられた歩行者用の地下道を抜けて海岸へ出ます。
そして、大磯八景を詠んだ歌の石碑については、現在残っていませんが以下のような歌は残っています。
“小松原 けむるみどりに打ちはれて 見わたし遠く 小餘綾の浦”
どうして石碑がここの場所だけないのか、調べてみたのですが分かりませんでした。場所が海岸という事なので、台風などで海が荒れた際に破損し消失してしまったのかもしれませんね。
- 絵葉書の表題:小餘綾晴嵐
- 「小餘綾の浦(現 こゆるぎ浜)」の所在地:神奈川県中郡大磯町大磯 こゆるぎ浜
- 「大磯八景 小淘綾の晴嵐」の石碑の場所:現在、石碑はありません。
最後に
大磯八景といっても全ての地点が、およそ半径1.5km圏内にあるので、自転車だと8カ所全てめぐっても1時間ほどで廻れます。
大磯八景をめぐってみて一ヶ所気になっていた事があります。残っている7基の石碑の内、ひとつ「照ヶ崎の帰帆」だけが石碑のデザインが異なり、裏面の建立日も違いました。これは、再建したという事なのでしょうか疑問が残るところでした。
また石碑裏面(上記写真)の建立日以外の刻印 “平成○○年七月 伊東静郎 書” とも読める文字についても、○の部分が特殊な文字で読む事ができず疑問が残ります。どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教授いただけると嬉しいです。