横浜市泉区の南部に位置する「深谷通信所跡地」という場所に訪れました。ここは航空写真で見ると円形に緑地が広がっている不思議なエリアです。この場所は、戦時中には旧日本軍が運用していた通信施設でしたが、1945年(昭和20年)に米軍に接収されてから、在日米海軍の厚木航空施設司令部が管理する送信施設として利用されていました。ただし、実際にいつごろまで運用していたのかという事は分かりません。
そして2014年(平成26年)の6月30日に、この深谷通信所の全エリアが返還されました。よって、今後はこの場所にある通信所関連の施設は撤去されてしまう予定という事で、撤去されてしまう前に一度訪れてみる事にしました。
県道402号から「旧 深谷通信所」の正門前に来ました。なんとなくアメリカの基地っぽい雰囲気が出ています。
入口のフェンスに掲示された注意書き看板の数々。
正門のフェンス越しに見える守衛所と思われる施設。建物にある受付窓と思われる所には、「Security Office 基地保安管理事務所」と「仮パス発行所」と書かれた看板が掲示されていました。ちなみに、2010年(平成22年)6月1日から米軍による日中ゲートでの在駐による警備から、1日2回ほどの巡回による警備に変わったそうで、以前はこちらの保安事務所に在駐して警戒にあたっていたんですね。
こちらの建物には「FIRE STATION NO.10」とペイントしてあることから、消防署だったという事が分かります。
先ほどの消防署の建屋の横には、アメリカっぽい消火栓と錆び付いた燃料タンクが目に入ります。タンクには錆び付いて消えかかった「DIESEL OIL TANK 」と「OAP. 2640 GAL」のペイントがわずかに残っていました。
こちらはフェンスに囲まれた囲障区域の南部に位置する建物。屋根や壁面の形状から倉庫や工場のような雰囲気ですね。
こちらの建物は先ほどのものと比べ簡素な造りの施設に感じられます。
囲障区域の西側はフェンスのそばまで近づく事ができます。フェンスの開閉可能な扉部分には丈夫そうな南京錠が取り付けられ、「U.S. PATENT」の刻印がありました。南京錠までアメリカの製品を使っているんですね。
こちらの施設は、鉄塔や碍子がたくさん付いている事から、受電および変電施設だったと思われます。この施設は深谷通信所の中心部にあたる囲障区域とは別に、円形エリアの北側に独立して存在しています。
かなりツタが絡みついてしまっていますが、受電用のたくさんの碍子や支持フレームが残っています。
深谷通信所のエリアには北から西に向けて小さな川が流れています。
通信所跡地内に敷設された遊歩道脇には、このようなコンクリート製の標識杭が残されていました。
草原の中の一角を照らすように設置された水銀灯と電柱の遺構が、なんともいえない哀愁を漂わせています。
深谷通信所エリアを南北に突っ切る県道402号線にはバス停が設置され、バス停名は「通信隊前」となっていました。
現在はこの地図に示されているように、青色に塗られた大部分のエリアが国の管理区域になっていて立ち入る事ができません。立ち入りが可能なのは地図内の白色エリアと赤線で示された通路のみとなっていました。
最後になりますが、この「深谷通信所」は接収時に戸塚区だったため「戸塚無線送信所(Navy Radio Transmitting Facility Totsuka)」とされていたようです。そして、この広大な「深谷通信所跡地」の面積は、約77haあり直径約1kmの円形をしています。敷地は中心部のフェンスで囲まれた囲障区域と、フェンス外の区域に区分けされています。さらにフェンス外の区域は、ロープ等で囲われた立入禁止エリアと一般開放された広場のほかに、一部は野球場やサッカー場などとして利用されていました。
以前は、ゲートボール場や市民菜園として周辺住民に利用されていた歴史がありましたが、2014年の全面返還後は国の管理となり個人での利用は出来なくなったそうです。